京都御所に行ってきた。
去年までは、事前の見学申請が必要だったのだけど、
予約が不要になったとの情報をキャッチ。
というわけで、早速、行ってみることにした。
まず、御所の入口に向かうと長い塀が目に入る。
京都御所は、かいつまんで言うと、かつて天皇が住んでいた場所。
いわば、日本で最も格式の高い家。それもずば抜けて。
この塀の長さをみると、さすが日本一格式の高いお家柄。
門を入ると最初に御車寄(おくるまよせ)という建物が目に入る。
御車寄とは表玄関みたいなものらしい。
しかし、ここから入ることができたのは公家の中でもトップクラス、
官位が上位の人だけだったという。
官位といういわば肩書きが大事で、たとえ石高100万石の大大名でも、官位がなければ原則としてここは利用できなかったそうだ。
ただ金持ってるってだけじゃダメなのですね。
続いて、目に入るのが、諸大夫の間と呼ばれる建物。
御車寄から入った公家たちが控室として使用した場所だそう。
奥から「虎の間」「鶴の間」「桜の間」の順に並んでいて、
これまた、身分によって入る部屋が違う。
虎の間は公卿、鶴の間は殿上人、桜の間はそれ以外の公家用だったとのこと。
露骨ですねー。
そしてこちらが、京都御所の中心かつ最も神聖な紫宸殿(ししんでん)という建物。
ここで重要な儀式が行われる。
天皇の玉座・高御座(たかみくら)というものが置いてあるのだけど、
これはとても神聖なものらしい。
今上天皇の即位の際には解体されて、東京の皇居まで運ばれたのだそうだ。
だったらもう、東京に置いておけばいいのにとも思うのだけど、
なぜか、いまだに東京ではなく京都に保管されている。
いまだに首都は京都である、とする説を唱える派があるらしいのだけれど、
その根拠が、この高御座が京都にあるからということなのだそうだ。
つまり天皇は東京にお出かけ中なのであるという論理だ。
実は法的にも東京が首都であると定められた法律もないという。
だけど、大多数の人にとっては、今さら京都が首都だと言われても、と思いますよね。
そしてこちらの建物が清涼殿。
かつては天皇の日常生活の場だったのだけど、だんだんと儀式の場として使用されるようになったという。
清涼殿といえば何といっても930年に起こった清涼殿落雷事件だ。
930年6月26日、御所で雨乞をしようかなぁという会議を開こうとしていた。
ずっと日照りが続いていたからだ。
しかし、その会議の矢先、突然、雷雨が降り注ぎ、清涼殿に落雷。
藤原清貫ら公卿・官人ら数人が死亡する。
これが清涼殿落雷事件だ。
この事件を聞いた人々は、清貫が菅原道真の追放に関与したために、
その怨霊の報いを受けたと噂しはじめる。
そこで、菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする信仰が始まった。
これが全国に広がる天神信仰のもとってわけだ。
雨乞いからの落雷は衝撃。
次に見えるのが小御所という建物。
小御所といえば、いわくつきで有名な小御所会議が開かれた場所。
江戸時代末期、幕府と対立していた薩長の討幕派は、徳川将軍家の関係者を一切呼ばず、この場所で極秘に会議を行う。
薩長側は徳川慶喜の辞官納地(官位を失い領地を返上する)を決定。
これにより、(薩長主導の)朝廷に従わない場合は朝敵となる仕組みが完成したってわけだ。
これぞキングオブ"密室で決定"。
小御所の北にあるのは蹴鞠専用の庭。
ぽつんと「蹴鞠の庭」って看板が立っているのがシュール。
蹴鞠専用の庭があるっていうんだから、当時、蹴鞠はめっちゃはやってたに違いない。
そういえば、中大兄皇子が蹴鞠の最中に落とした靴を、中臣鎌足が拾ったことをきっかけに二人は仲良くなり、「大化の改新」が起こったらしい。
蹴鞠っていうのは、なんだろう?今でいうゴルフ的なものだろうか。
そして最後、ここがようやく天皇の家の中の家、御常御殿(おつねごでん)だ。
天皇のプライベートな住まいで、
七夕や盂蘭盆など内向きの行事が行われ、能舞台も備えられているという。
能も見に行くんじゃなくて、家でやってもらうってあたりが、さすがです。
京都御所は重量級の歴史的スポットが多かった。
京都のど真ん中で無料でぷらっとまわれるのがとてもいい。
京都をディズニーランドとしたら御所はシンデレラ城。
もっと注目されるべきスポットだ。